Epistemicia by Banma!!

バンマのブログ。

心覚20200523:誰にも感情移入できない群像劇としてのテラスハウス

テラスハウスはめちゃめちゃすごい番組だと思う。

リアリティショーのジャンルにありながら、リアリティショーというジャンルが基本的に設けている『番組(乃至、参加者)のゴール』がない。

告白して日本に帰る、とか、生き残ってバチェラーと結ばれる、とかそういう。

ジャンルで言うとどっちかっていうとバカリズムが脚本を書いてるドラマとかの方が近い気がする。

 

そういうジャンルの曖昧さが楽しみ方の多様性を生んでいてよかったのだと思う。

僕は、まだ深い関係性にないコミュ力が比較的高い登場人物同士の浅い会話が流れているという点が好きだった。

登場人物の誰にも感情移入できない群像劇みたいな部分が好きだったのだ。

友達に聞いたら、副音声付きじゃなかったらテラスハウス全然楽しくなくない?と言われた。

そっちの方がよっぽどメジャーな楽しみ方なんだと思う。

 

最近のテラスハウスは、どちらかというと苦手だった。

常時、ひとりにフォーカスしがちだったから。

群像劇的な要素が薄くなりつつあると感じていた。

 

今シーズンの序盤で言うと流佳。

発言に一貫性や信念がない、常識がない、などという部分がフォーカスされていたが、はたちそこらの子であれくらいの子は居るものではなかろうか?

僕の住んでいる世界の程度が低いのだろうか?

最近で言うと、社長。

社長に関しては流佳とは違い、売名が出来れば本人に益もあるしいいのかなとも思うけど。

 

所詮テレビだし、撮れ高という概念はかなり重要だと思う。

ビビのような、五体満足に生きて正論を言う人に関しては撮れ高は低いのだろう。

感情をむき出しにする人や、人の生活をのぞき見する醍醐味を感じられるような行動をする人こそが撮れ高が取れる人なんだと思う。

僕はProduce~シリーズにハマっていたのでリアリティショーこそ優秀な放送作家の存在が必要なこともわかる。

テラスハウスにもそういうスタッフがいるのだと思う。

ここ最近の、撮れ高を求めた流れが生み出していったのが、『安心したい視聴者』だと思う。

番組を見て、自分は比較してまともである、この相手になら正論を言える、この相手なら批判できる、といった感情を抱ける視聴者。

 

かつて、愛華は精神的な限界を感じてテラスハウスを出た。

花がこの世からいなくなったのは、SNS上で粘着し彼女の行動を批判した視聴者の所為だという意見が多く見られる。

ほんとうにそれだけ?って思ってしまった。

じゃあ、その視聴者を生み出したのは誰なの?

SNSの使い方は気をつけなさいって結末になるのだろうか?

分別をつけながらテレビを見なさいって話に帰結してしまうの?