■ツンドク
『積読』という言葉、というか概念があまり好きではない。
買った本を読まずに積んでおく、ということなのだが、本の役割が読まれることにしかないようでどうも好きになれない。
大抵の本はお金を払って買うので、『読む』の前に『買う』という行為を本に対して行う。
その中で『読まれること』ではなく『買われること』で目的を果たす本も多数あるのではないかと思う。
自分が何に興味があるのかや、はたまた衝動や評判で買ったが興味が持てないジャンルは何なのかを知る。
どんな気分の時にどんなものを読み進められるのか、読み進められないのかを理解する。
それに、購買その行為自体が目的となる場合も多々あると思う。
そういう機敏というか、自分との対話みたいな何かが『買った本は読まなければいけない』という生真面目さに握りつぶされてしまっているような気がする。
読まずにいた本に数年たったある日突然ピン!と来て読み始めるとしっくりきたりもするし、あんまり無理に積読を解消しなきゃ!と思い続けるはないんじゃないかと。
服にも、同じようなことを結構思ってる。
経済活動を運命論的に解釈していく現象に名前は付いているんだろうか。
■ゴミ捨て狂想曲
ここ最近の天気は香港を思い起こさせる。
香港と言えば、最近じわじわと思い続けていたことがあった。
住宅事情で、これだけはシンガポールや香港が日本より優れている!と思うところがある。
僕は家事全般が基本的に好きで、掃除も洗濯も皿洗いも基本的には面倒だと思わない。
でも、ゴミ捨てだけがどうしても好きではない。
今住んでいる家は世帯数の多いマンションなので地下に共同のゴミ捨て場があり、24時間そこに持っていけばゴミ捨ては完了する。
この、地下のゴミ捨て場まで行くのが本当にめんどくさい。
やってみれば、部屋から出てエレベータに乗りゴミ捨て場でゴミを捨てまたエレベータに乗り部屋に帰るだけの数分のモーションだが、他の家事には無い『他人と遭遇する可能性がある』という要素がある。
つまり、身だしなみをある程度整えなくてはいけないという前準備が必要になる。
上裸で過ごしていれば服を着なければいけないし、着る服もビロビロのタンクトップではなんとなくいけない気がするし。
シンガポールや香港の住宅はその点が楽だった。
ダストシュートがあるのだ。各部屋にダストシュートがあり、そこにゴミを放り込むと地下のゴミ捨て場にゴミは直行する。
ダストシュートさえあれば、ゴミ捨ては部屋で完結する家事になるのだ。
しかし、ダストシュートは便利さより問題の方が多い。
ゴキブリ等の虫の出入りが容易になるし、シンガポールでは今デング熱が流行しているが、ダストシュート経由で蚊が侵入することはあると思う。
ゴミ捨て場の掃除は出来ても、ダストシュート自体を清潔に保つことは難しい。
かつての香港ではダストシュートや換気口が他の世帯と繋がっていたためSARSが同マンション内でパンデミック化した例もあった。
それでも、いつもゴミを持ちながらエレベータの地階ボタンを押す度に、ダストシュートのことを思い出す。
でも……やっぱり住環境に関しては日本が最高です!世界最強だと思います!
■ユニバーサルバニー
僕の人生の統計として、話が面白いのは兄弟姉妹が居る人で、特に一番上か一番下が断トツなイメージがある。
一人っ子なんかは世界観がありながら、それを表に出す方法を必要としていない印象。
なんでだろうか、とすごく考えた時期があったけど、ユーモアというのはひとつ親に話を聞いてもらう手段だったのではないかと思う。
子どもを観察していると、親に話を聞いてもらうというのは、小学生くらいまでの子どもにとって死活問題なんだと思わされる。
長子や末っ子はその生存戦争において特に熾烈な戦いをしてきたからこそ、人に話を聞いてもらうための手段としてのユーモアが発達するのではなかろうか。
ユーモアを話し方の問題だと思っている人は多いのではないかと感じるが、ユーモアは感じ方の問題だ。
アウトプットが特殊な人は、アウトプットに特殊なことをしているわけではなくそもそもインプットが特殊なのだ。
感性までも左右してしまうのだから幼少期の過ごし方というのは凄い。
血液型とかより、きょうだい構成と性格の相関の方が話してて面白いし好きかも。