Epistemicia by Banma!!

バンマのブログ。

雑記20221211:パソコンの学校に行きたいな 将来に 二人で お店出すため

■私たちになりたくて

他人が何しようがどうでもええじゃろがいとキレ返しそうになるが、世の中、僕がスキンケアをすることや下地を塗ったり眉毛を描くことに難色を示す人が案外まぁまぁ居る。

意外と女っぽい趣味なんだねとか、やってもこの仕上がりとか、酒の席で言われる度に胸ぐら掴んで、えぇ!!じゃあ2km先から裸眼でも確認できるテメェの毛穴ひとつひとつにスパゲッティ乾麺ぶち込んでやろうか!!?とメンチを切りたくなる。

別に僕は金城武のような顔面になれると思ってスキンケアをしているわけでもないし、軽いメイクをしたとて何かがプラスになるともあまり思っていない。

そもそも加点されたくてやってるって発想が間違いで、スキンケアとかメイクって多少のお金や手間で減点されずに済むための手段みたいな部分が強いはずだし。

僕は持論として、スキンケアやメイクは食事に近いものがあると考えている。

やらなければ死ぬという大前提は除くが、こだわり具合や好み、傾向、課金度合いなどが人によって違う点や、そこにかける丁寧さが人生を向上させる可能性がある点はかなり類似していると思う。

元々は食事は生きるために必要な行為だったけど、現代では自分(心身ともに)を癒すとかいたわるような側面が強いように僕は考える。

スキンケアやメイクも同じだ。

もちろんコンプレックスを消したいとか、諸々の動機が世に存在していることはわかってるけど、特にスキンケアなんかは自分をいたわる手段みたいな部分がかなり強いと思う。

スキンケアにお金をかけて、自分に化粧品を塗りたくりどうこうというのは自分の心身をいたわり癒しもう明日も生きていこうという意思表明の行為のような意味合いが強いのではと考えている。

やってることそのものに意味があり、効果は後からあればよい位のものなんじゃないかな。

メイクだってそうで、これから外に出ますよ、今日も外できちんと生きますよっていう意思表明みたいな部分があるように思っている。

表に出るバージョンの自分になるための儀式というか。

どんな行為も複合的な意味があるんじゃないかなと。

あぁ、明日起きたら顔面が金城武になってないかな~

 

■私たちは生きているのか?

最近、森博嗣のS&Mシリーズを読み返している。

僕には兄が2人いるがどちらともそこまで濃い関係はなく、共通の思い出は少ない。

趣味も似通ってなかったので物の貸し借りなんかもすることもほぼなかった。

数少ない物の貸し借りをした記憶の中で、兄から借りてなぜか今でも印象に残っている本が森博嗣のS&Mシリーズだ。

生きていてちっとも良いことはないと思いながら毎日過ごしているけど、こういう風にただ『面白い』とか『好き』以上の複合的な愛着が湧く物語が世に増えることだけは良いことだと思う。

すべてがFになる』から順番に読んでいると、そういえばこの頃(90年代)は密室ミステリーが最盛期だったのだと思い出す。

よく考えると最近は密室ミステリーはあまり見なくなった。

この前の、なにわ男子の道枝くんが主人公だったドラマ版金田一もやっぱり密室ミステリーブームが終わったからだめだったのかな?

携帯電話とか、いろんなテクノロジーの変化で『密室』はリアリティのない存在になってしまった。

というか、あの頃だって密室ミステリーにリアリティはなかったように思うけど、より一層、滑稽に感じるようになってしまったのはなぜだろう。

最近のミステリーの主流はトリックよりも、なぜそこに至ったか、犯行が暴かれると共に犯人側の悲壮感いっぱいの背景が描かれるようなタイプのものだと思う。

必ずしもそうではないけど、密室ミステリー最盛期の頃のミステリーの犯人とは、どちらかというと理知的で強者側だった印象が強いが、今は犯人はだいたい弱者側となる。

密室が~というより、ミステリーの主流が強者による計画的犯行から弱者による衝動的犯行に変わったのではないかなと。

こういうの、社会が変わったのかなとも思うしもちろんそれも理由の一部だとは思うんだけど、個人的には物語を摂取するマス層が変わったのではないかと思う。

ギミックや考察を楽しんでいた層というのは詰まるところミステリー小説以外のものからも今は同質のエンターテイメントを摂取できているのだと推察する。

ただ、悲壮感のある物語に共感したい人は今もミステリー小説の畑に残り続けている。

なぜなら共感は新興のエンターテイメント勢力(YouTubeとか)からは得にくいから。

かく言う自分もずっと、共感を摂取したくていにしえのエンターテイメントにしがみついているんだと思う。

落語とかが徐々になくなっていくのと同じで、小説とかも、いつかはなくなっていくのかな?

ていうか、なんか急に『なぜなら~』とか使い始めたけど、絶対森博嗣に影響されちゃってるよね。

 

■私たちの合言葉なら

若い子たちの文化に驚くようになった。

『LINEでちいかわのスタンプ使ってるのっておじさんっぽい?』と2000年生まれの子に聞いたら、『そもそもLINEほぼ使わないんで。みんなスタンプわざわざ買わないです、スタンプ使ってる時点でもうおじさんですよ』と笑いながら言われた。

インスタグラムのメッセージでやり取りをするらしい。

年を取ったと感じる一方、行く場所によって最年長になって自己紹介のタイミングで気まずくなったり、相手によっては『まだ若いね~』と言われたりするなんとなく微妙な年齢になったなとも思う。

加齢による一番の気づきは、一回り年下の子と交際をするおじさんの凄さだ。

ゲイの世界では干支ひと回り年の差があるカップルなんてざらにいるし、40歳と20歳なんて場合も時にはある。2倍だ。

そもそもが一般社会においてアウトローな恋愛をしている以上、業界内で他人の恋愛の細部について口を出す人はあまり多くない印象がある。

(全員ではないし、逆にそういうのに厳しい界隈も業界内にあるなとも思う。)

若い頃は、年下好きなおじさんなんだなとか、おじさん好きな年下なんだな、とただ思っていたが、ひと回り年下の子たちが登場した今、ひと回り年下の子たちと渡り合う難しさについてひしひしと感じている。

文化の前にまず体力が違う。彼らのリズムに合わせる体力がない。

体力が持たないという事実を彼らが理解、というか体感していないのだから言葉で言っても腹落ちさせるのが難しい。

今まで周りに居たひと回り年下と付き合っていたあの人も、あの人も、良く考えれば体力や気力に溢れた人だったなと時を経て彼らのことを尊敬する。

そして極めつけは、精神が持たない。

人生の先輩面して年下の子に90年代のこととか語ったり、年上だからとなんとなくしゃんとしなくてはいけない状況が耐えられない。

この辺は僕の根底に『末っ子』という呪いがまとわりついている部分も大きいと思うけど、自分より10年以上後に生まれた人間と親密になる難しさを感じる。

年を取ること自体にあまりネガティブな感情は抱かないけど、こうやって今まで関わってきた人のことを後追いで尊敬したり、理解することは人生にとってすごくエッセンシャルな気づきだと思うしポジティブに思える。

なんか最近おじさんになることばっかり考えてるな。

 

縁あって&beのイベントに行ったら河北裕介さんが居たんだけど、すごい明るくてひょうきんなおじさんで尊敬しちゃった。

ああいうおじさんになりたいよね。

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