■炭水化物を食べる人間
遠慮しないタイプの友達には、僕は脳に問題があるのではないかと言われる点がある。
同じドラマ、映画、動画などをとにかく繰り返し見るところである。
本なんかもかなりそう。同じ本ばっか読む。
こと、映画に関してはほんとうにほんとうに同じ映画しか見ない。
新規のハズれ映画を見て2時間を無駄にするくらいならシナリオを知っていようがなんだろうが自分にとって響く、自分にとってのアタり映画を見る方がよっぽど良い。
その、自発的に繰り返し見る映画の1軍には入っていないものの、機会があれば喜んで見る2軍映画に『プラダを着た悪魔』が含まれている。
最初は大学の寮で見たのだからもうおおよそ半生『プラダを着た悪魔』を繰り返し見ている。
映画だけじゃなく本もドラマもそうなのだけど、繰り返し見る利点は自分の変化を汲み取れる所にある。
昔は理解できなかった台詞が理解できる。
共感できなかった登場人物に共感できる。
『プラダを着た悪魔』をはじめて見た大学生の時は何の疑問もなく主人公のアンドレアに共感していた。
こんな風に賢く美しく、一生懸命に生きていれば逆境の中でも自分の道を探せるのではないのかと思っていたのだ。
思っていたのだ、なんて言うと今の僕にとってそれが全て嘘だったように思ってしまうけど、そうではなくて、そもそもアンドレアの様に生きられる賢さも美しさもひたむきさも持ち合わせていなかっただけです。
社会人になってから見て断然好きになったのはミランダ。
セルリアン~のくだりが最高!
『プラダを着た悪魔』の凄さは小説を上手に消化、ある意味で昇華していたところで、ミランダがただの厳しいおばさんだと言うことのみに注力せず、彼女が異常なレベルで仕事に打ち込み卓越したプライドを持ってやっていること、自分に厳しくするのと同様に他人に厳しくしているだけなのだと台詞のみでわからせている点。
セルリアン~の一連の台詞は流れるようでさりげないけど、あのメリルストリープの演技は物凄いと思う。
そして、最近じわじわと好きなのはエミリー。
エミリーのことを好きになる日が来るなんて、大学の寮で友達とだらだらこの映画を見ていた頃は想像もしなかったはず。
エミリーは確かにいじわるな面はあったものの、努力と忍耐の末に第一アシスタントの座を勝ち取り、守り生きてきているのだからあれぐらいのプライドは醸成されるし、アンドレアみたいなやつが来たらイヤだろう。
『アンドレアみたいなやつが来たらイヤだろう』
そう、ここなのである。自分がエミリーに共感してしまい、エミリーそのものになってしまった所以は。
最終的にエミリーは長年の夢であったパリ出張をアンドレアに譲る。
エミリーが入院した病院で『炭水化物を食べるような人間に!』と怒るシーンで、この前つい泣いてしまった。
ファッション雑誌が作られるあのビルのあのフロアで、炭水化物を食べる人間に人権などないはずなのに。
パリに行くのは自分ではなく、炭水化物を食べる人間であるアンドレア。
別に僕が何か仕事で苦汁を飲んできたとか悔しい思いばかりしてきたというわけではないんだけど、なんとなくわかってしまったんだと思う。十数年も社会人をやってて。
仕事ってのはすごくいい面とかすごく悪い面ばかり語られるけど、『折角がんばってたのにアンドレアみたいなやつが来てしまった』とか『パリに行けなかった』みたいな、エミリーの様な思いをすることこそが一つの神髄なのだと。
世知辛いね。でもそれが社会だね。
■マイグレイブ
叔母はハワイに墓を買った。
ハワイに縁のある人間ではないし、家族もいるので、そのままでいれば入る墓が日本のどこかに既にある人だ。
それでもわざわざハワイに墓を買った。
価格を聞くと思った以上に安く、老後の貯金の一部で買ったのだろうか、割と深刻な事情がある様子もなくただ死後にハワイで埋葬されることを人生の楽しみの一つに加えたようだった。
それに触発されたのが僕の母で、母ももちろん結婚しているので何も言わなければそこに収まるであろうという墓がある。
それでも諸般の事情を鑑みて都内にお墓を買いたいという。
死後、自分の墓を参ってくれる息子は主に都内に居る(主に僕のことか)からである。
面白いと思ったのはこの二人の性格の違いで、叔母は誰もお墓参りになんて来なくてもいいからひとりハワイで埋葬されたい。
僕の母親はと言えば、誰もお墓参りに来ないような場所で埋葬されたくないと言う。
それでも共通しているのが二人とも旦那と同じお墓でなくてもいいという所。
それと、自分でお金を出しても納得のいく場所に墓を買いたい、自分の選んだ場所で埋葬されたいという強い信念。
ある種のガールクラッシュ的な新しさと意志を感じてじーんときてしまった。
年齢を重ねるごとに、家も服も趣味も何も選べる範囲は狭まっていくのだろうと思う。
墓だけは選びたい、妙齢の女たちに心を打たれた。
■ANTIFRAGILE
かなり前から『自己肯定感』という単語が一般的になったと思う。
それまでも存在していたはずのものが名前を与えられ一般に浸透することで一つの概念として確立されるのだから、言葉と概念の関係性について考えさせられる。
僕が『自己肯定感』について違和感を覚えるのは、その字面から推察するに感受や感覚、感情に結び付いた概念のはずなのに、人それぞれのあり方をせずいつの間にか『正しい自己肯定感』のありようがあるようになってしまったこと。
僕はたぶん一般的な自己肯定感の定義からすると、自己肯定感の感じ方(こういう用法でいいの?)は平均より低いと思う。
もう用法もわからないし、平均とか出るものなの?
だってみんなそれぞれ、コンディションとか時期によっても絶対違ってるよね?
まぁいいんだけど、でも、わりといびつにはと言うか、自分なりの方法で高く保ってはいるようにも思う。
僕はたぶん自分の直感を自分で信じられる、という自分の人生や選択への信頼感があるように思っており、そこが自分なりの自己肯定感に直結しているように自分では考えている。
自分の直感は正しいし、正しくなかったとしてもその選択を後悔することはない。
だって自分の直感により選んだ選択肢だし。
自分を好きか嫌いかとかそういう軸で言うならそんなに好きでも嫌いでもないけど、自分を信頼できるかみたいな部分で言うとなぜかまぁまぁ信頼できる。
あんま他人からは信頼されないけど。
自分が選んだものに自信ないならわざわざブログで購入品紹介とかせんわなとも思うし。
これなんかすごい人と話したいトピックだったんだけど、どういうアプローチしても誰かの闇に触れてしまう気がしてなかなか話せないのよね。
以上です!
silentの1話、12回見て12回泣いちゃった。